• 読めば山に登りたくなる!イヤミスの女王が描く山小説

    熊の大量出没ニュースが世間を騒がせてから、あまり山に登れていません。登りたくて悶々としてきたので、ひさしぶりに山女日記を読み返してみました。

    作者は湊かなえです。最初、書店で発見したときは湊かなえと山がつながらず、何かの間違いだと思いました。湊かなえと言えば人間のダークサイドを抉るイヤミスというジャンルを定着させたイヤミスの女王です。牛乳パックに血を混入させたり、人間を標本にしたり、人が死ぬ瞬間を見るために老人ホームに行ったり、そういう人物を描いてきた人です。だから、その湊かなえさんがご来光を見て感動したり、山頂の景色を眺めながらコーヒーを飲んだりする絵が思い浮かびませんでした。どちらかと言うとネットの中傷記事見てネタ探ししてそうです。

    ところが実は湊かなえさん、大の山好きなんだそうです。湊さんはサイクリング同好会の仲間たちと山に登っていて社会人になっても登っていたのだとか。そもそもこの山女日記自体が登山から遠ざかっていた湊かなえさんが山を登る口実を作るために書いたのだそう。山頂でコーヒーを飲むのも好きだそうです。失礼しました。

    しかし、油断はできません。山が舞台と言ってもそこはイヤミスの女王。なにかしら嫌な気分にさせるトリックが山女日記にも潜んでいるのかもしれません。コーヒーに潜んだ毒物、テントの中での罵り合い、ニヤリと笑って切られるワイヤー・・・。そんな描写に警戒して山女日記を読んだのですが、びっくりしました。まったく嫌な気分になる要素がありません。それどころか、遭難とか絶壁とか、孤高のクライマーとか、山岳小説によくある要素もないのです。描かれるのは我々がよく知る登山。鬱屈とした悩みを抱える主人公たちが、山を登っていくうちに新しい一歩を踏み出す。え?あなたは湊かなえさんですか?と僕は本に聞いてしまいました。

    題材にした山は「登山経験の無い人がここなら行けそうかなと思える山にした。」と本人がおっしゃっていますが、どれも標高2000m超えの山ばかり。湊さんの登山レベルの高さが窺えます。「ここなら大丈夫だよ!」が全然大丈夫じゃない、登山経験者あるあるですね。

    山女日記と残照の頂を通読しましたが、やっぱり登山はいいな、小説はいいな、と再確認できました。短編集なので一つ一つはすぐに読めます。なので入門としてもオススメです。

    ぐるぐる止まらない悩み思考が山を登ることでリセットされる。登山経験者なら一回はある現象も書かれています。個人的に良かったのは後立山連峰の回でした。ご主人を亡くした妻が、主人が行きたいと言っていた五竜岳を登るという話ですが、奥さんは五竜岳を登ることで夫への後悔の念を浄化していく過程が丁寧に描かれていて、目頭が熱くなりました。

    ひさしぶりに山女日記を読んで、山に登りたくなりました。登山経験者も登山経験の無い人も楽しめる小説だと思います。初回で2000m超えの山はオススメできませんが笑。

  • 行動科学者が考案した自分を変える画期的方法

    もうすぐ新年ですね。いやあ、あっと言う間ですね。今年もあとわずか。

    毎年思ってしまうのが、あれ?こんなはずじゃなかったといううっすらした後悔。意気揚々と掲げた目標はすっかり忘れて気づけば去年と同じことをしてしまう。僕が新年に掲げた目標を挙げると

    • 料理に挑戦
    • ブログを毎週続ける
    • 小説を2本完成させる
    • 毎月 200km走る
    • 走らない日に筋トレする

    とまあ、これだけあったのですが辛うじて達成できた目標はブログのみ。最初のみなぎるやる気は2月頃には下降を始め、なんだか目標はうやむやになり、気づけば12月ということをここ5年繰り返しています。

    それでは行けないと思い買ったのがずばりそのまま、自分を変える方法です。著者はケイティ・ミルクマン。ペンシルベニア大学の行動科学者です。この本の特徴は行動科学者で元エンジニアの著者があくまでシステマチックに合理的に自分を変える方法を提案していること。よくある精神論一辺倒の自己啓発書とは一線を画すわけです。

    ここで提唱されている方法論は全部で7つあります。7つ全部紹介したいところですが紙面に限りがあるので「衝動性を利用する」という方法に絞って紹介しましょう。

    みなさん、やめたいけどついついやってしまうことと、やりたいけどなかなか続かないことありませんか?僕の場合はスナック菓子とコーヒーの過剰摂取、できないのは筋トレや料理ですかね。人間とは心の弱い生き物です。誘惑には負け、努力は続かない。著者いわく、人は未来の自分の意志の強さに期待しすぎるということです。そこで著者は提案します。やめたいけどやってしまうこと、やりたいけど続かないこと、この2つをくっつけてしまおう、と。

    つまり苦しいだけの努力に、快楽を追加するということです。よくある自分へのご褒美と違うのはご褒美をあげるのは努力をしている最中だということ。たとえば、著者はジムが続かないという悩みを解決するために、ジムでのワークアウト中だけ小説のオーディオブックを聴いていいというルールを適用したのだとか。それでジムが続くようになったそうです。

    さらにここだけだと単なる著者の経験論ですが、著者は行動科学者。ここで実験をします。ペンシルベニア大学の大学生に有志を募り、A群とB群に分けジムの運動量を計測しました。A群の大学生にはipadを貸し出し、ジムのワークアウト中にだけオーデイオブックを聴けるというルールを作りました。一方のB群は特になにもせずにジムに行ってもらいました。結果、A群の参加者はB群より55%運動量が多いというデータが出ました。さらにA群の学生たちは7週間、大幅に運動量が増加したそうです。

    この方法はいろいろ応用が利きそうです。僕も小説を書くときはカフェに行っていいとか、長い距離走るときは旅ランをするなど、努力が快感になる工夫をしていこうと思います。

    他にもこの本には新年や区切りの時にやる気がみなぎるフレッシュ効果とか、7つの実践的アドバイスが書かれています。新年前に一度この本を読んでみてはいかがでしょうか?

  • 考えるな!感じろ!シュールレアリスムの極北

    世の中には難解な本があります。読むだけで身悶えするような、字でできた断崖絶壁。その山に好んで挑戦する好事家たちがいます。今日はそんなクライマーたちが好んで読む作家、安倍公房の最後の小説、カンガルーノートを紹介しようと思います。

    僕が思うに難解さには二種類あります。一つは左脳型。数学や哲学書など理論が複雑すぎて難解、というやつです。

    もう一つは右脳型。ピカソやダリの絵に代表される、シュールすぎて意味が分からないという難解さです。

    基本的に文学には左脳型の難解な本が多いです。やはり文字を読む行為は左脳を刺激するのでしょう。しかし、文学の世界はごく稀に右脳型の難解な小説を書く天才が現れます。

    古くは主人公が毒虫に変わるという衝撃の書き出しで始まる変身を書いたカフカ。最近では村上春樹がこのタイプにあたるでしょう。

    そして今回紹介する作家、安倍公房も右脳型の難解小説を書く天才じゃないかと思います。

    なにが難解なのか?まずカンガルーノートのあらすじを読んでみてください。

    ある朝突然、<かいわれ大根>が脛に自生していた男。訪れた医院で、麻酔を打たれ意識を失くした彼は、目覚めるとベットに括り付けられていた。硫黄温泉行きを医者から宣告された彼を載せ、生命維持装置付きのベットは、滑らかに動き出した・・・。坑道から運河へ、賽の河原から共同病室へー果てなき冥府巡りの末に彼が辿り着いた先とは?

    いかがでしょうか?意味が分かりますか?これは本のあらすじを一言一句書き写したものです。おそらくこのあらすじを見た人の反応は2つに分かれるのでないかと思います。

    意味分からん。無理!という人と、意味分からん、面白そう!という人。

    僕は後者でした。なのでカンガルーノートを買い読みました。

    読んだ印象は地獄のイッツアスモールワールド。イッツアスモールワールドというアトラクションはご存知ですか?ディズニーランドにあるお伽の国をゴンドラでゆっくり回るアトラクションです。

    脛にかいわれ大根が生えた主人公は、自走するベッドに乗って、死後の世界を思わせる摩訶不思議な世界を巡ります。

    地獄巡りと言いましたが、その描写はコミカルで笑ってしまいます。三途の川を思わせる賽の河原は観光地化され小鬼のガイドが引率してくれます。脛に生えたかわいわれ大根を使った、サンドイッチやみそ汁などを食べさせられたりと、M本H志氏が真っ青になるようなシュールな笑いが小説全編に漂っています。

    どこまでもシュールな作品ですが、その背後にはどことなく死の匂いが。それもそのはずこの小説は安部公房が死の2年前に刊行された遺作なのです。彼は忍び寄る死にシュールな笑いによって立ち向かったのかもしれません。彼なりの死後の世界の考察である気もします。

    とまあ、もっともらしい解説をつけましたが、真実は闇の中です。この難解な小説を考察してみるもよし、ただ笑い飛ばしてもよし、いろんな解釈のできる名作です。体力に余裕のある日に読んでみて下さい。

  • お金を貯めるために夢を持て?熱くて実践的な節約論

    飛騨高山から帰ってきて、すっかり現実に戻りました。お金が欲しい。今のところ悩みはこれ一つです。お金を増えすには収入を増やすか、支出を減らすかの2択です。とはいえ収入を今すぐ増えすのは難しい。かなり長期スパンで考える必要がります。今すぐできるのは支出を減らすこと。ということで本棚に眠っていたこの本を再び手にとることになりました。横山光昭著の90日で貯める力をつける本です。

    この本のいいところは、ただ支出をケチることを推奨しているわけではないところです。この本で協調されているのは、何のために貯金するのか、ゴールを明確にすること。将来の不安ではなく、未来の自分の可能性のために貯めることが大切だと著者は言います。動機がネガティブかポジティブかで結果は大きく変わるとも。僕は目が啓かれる思いでした。

    この本に書かれている方法は非常にシンプルです。毎日の支出を記録し、消費・浪費・投資に分けるだけ。消費は生活に必要な経費。食費や日用品ですね。浪費は無駄な支出。使っていないサブスクや、過度なギャンブルや酒がこれにあたります。投資は未来の自分のために使う支出。本やジムの経費、習い事の費用です。

    ここでのポイントは人によって、消費・浪費・投資の基準は変わるということです。旅行は人によっては浪費になりますが、知見を増やし人生を充実させるという意味では投資です。しっかりと自分軸を持って消費・浪費・投資の基準を決める。そうすることによって貯める力は伸びるそうです。

    前に読んだお金の教養の本でも感じたのですが、著者にはお金は自分の人生を充実させる道具であって、人生をお金を貯める道具にしてはいけない、という考えが根っこにあると思います。過度な節約をするのではなく、人生の目標や夢を持ち、それを叶えるためにお金を貯める。青臭く感じるかもしれませんがそれがお金の本質なのかもしれません。

    この本にならってまずは90日間、家計を記録しようと思います。アプリで記録はしていたんですが、消費・浪費・投資の視点はなかったので参考にします。なぜか知らないけど貯金ができないと悩んでいる人にはおススメの本ですよ。

  • 飛騨高山に行ってきました!

    彼女と1泊2日の飛騨旅行に行ってきました。本当は2泊3日で上高地にも行く予定でしたが、上高地が11月で閉山することを10月に知り、慌てて旅館をキャンセル、急遽飛騨高山のみの旅行をすることに。さらに特急ひだの特急券を旅行2週間前に紛失、買い直すはめになりました。ADHDの特質が大爆発です。旅は人の本性が出るって本当ですな。彼女には迷惑をかけましたが許してくれました。

    が、災い転じて福となす。万事塞翁が馬。結果的にスケジュールに余裕ができゆったりとした旅ができました。旅の時はわりとタイトにスケジュールを詰め込むタイプだったのですが、今回初めてゆったりとした旅の魅力に気がつけました。

    飛騨の旅で衝撃を受けたのはなんと言っても食の旨さです。最初に食べた飛騨牛串の衝撃たるや忘れられません。他にも肉寿司、ステーキ、温プリン、高山ラーメンなどいろいろ食べましたが、全部美味。外れが一つもなくてびっくりしました。大阪出身ですが、食い倒れの看板は喜んで譲ります。それぐらい旨かった。

    他にも古い町並みをぶらぶら散策したり、日枝神社や高山陣屋に行ったりと充実した旅でした。いやあ、旅っていいですね。

    そして氷菓です。すみません。なんかついで感出すぎですね。ちょっと書き方考えます。

    氷菓の舞台は実は飛騨高山。小説は架空の街ということになってますが、これは公然の事実です。氷菓は学校を舞台にしたミステリーです。いわゆる日常の謎というジャンルに入ります。日常の謎とは人の死なないミステリー。大きな事件は扱わず、小さな謎に挑むミステリーです。「なんでいつも館で殺人事件が起きるの?」「名探偵って、刑事でもないのになんでしゃしゃりでるの?」「外部に連絡入れたらいいのに」など、ミステリーのお約束にいちいちツッコミを入れたくなってしまう人にはおススメのジャンルです。どこにでもありそうな学校が舞台というイメージで読んでいたので飛騨高山が舞台と思って読んだらまた趣が変わりました。ここが日常って贅沢やね。

    作者の米澤穂信さんは「15%の人が解けるミステリーを書く」のがポリシーだそうで、論理的に伏線を読み解けば謎は解けるそうです。僕は分かりませんでした。凡庸な75%の人間です。

    飛騨高山も氷菓もどっちも良かった。古典部シリーズを片手に飛騨高山旅行はいかがでしょうか?

  • 文学は暗い?先入観を吹き飛ばす笑える小説

    みなさん、文学と聞いて何と連想しますか?なんとなく暗い印象を受ける方がほとんどなのではないでしょうか。たいがい作家の写真って、眉間に皺寄せて難しい顔してる場合が多いですもんね。

    しかし、どっこい、世の中には笑える文学というものが存在するのです。

    今回は世間の文学のイメージとは反対の、明るくテンション高めの笑える文学を集めてみました。

    1 夫婦茶碗 町田康

    はい。町田康です。またかよと思われても好きなので仕方ありません。実際笑える文学では筆頭に立つのではないでしょうか。

    この小説は貧乏で怠け者の私が嫁に逃げられ、一発逆転を賭けて、珍妙なビジネスを始めたり、メルヘン作家を目指して失敗する、ただただダメな男が失敗していく話です。例によって躁病患者のようなハイテンションな文体で、ひたすらナンセンスな失敗を繰り広げていきます。それが滑稽で笑えます。文体が独特なので慣れないとしんどいかもしれませんが、慣れたら中毒必至です。

    2 金払うけど素手で殴らせてくれないか? 木下古栗

    タイトルから分かる通りシュールな小説です。笑いの種類が町田康とは少し違い、不条理な感じです。M本H志のコントみたいと言えば伝わるでしょうか。

    失踪した米原正和を米原正和本人が探すというところから小説は始まります。この時点でかなりシュールですね。かなり不条理な展開が続くんですが、文章はかなり端正でキレイです。そのギャップもすごい。真顔でボケ続けるような狂気を感じられます。

    3 太陽の塔 森見登美彦

    鬱屈した青春時代を過ごした人なら、笑えて泣けるかもしれません。好きだった恋人にフラれた主人公が、それを受け入れれずストーキングを続けるという、要約すると身も蓋もない話なんですがこれが笑えるんです。文体が一つの発明と言えるぐらい良くて、古めかしい日本語を使ってるんですがそれが滑稽味を出して面白いです。この文章が偏屈なストーカーを、憎めなくて愛嬌のある青年に見せるという奇跡を起こしています。

    4 シン・サークルクラッシャー麻紀 佐川恭一

    作者は一部界隈では黒い森見登美彦と呼ばれています。躊躇なく下ネタをぶちこんでくるのがこの作者のスタイルです。一人のすごいエロい女子が文芸サークルに加入し、男たちを惑乱していくというのが大筋ですが、筋なんてどうでもいい破壊力があります。しかし、これは文学なのか?と思わずにはいられません。面白いからいいけど。

    5 魔法少女ミラクリーナ

    僕は天然ボケ最強説を唱えています。芸人がどれだけ技巧をこらしても、本気で狂っている人には敵わない。この小説にはそれを感じます。主人公は36歳のOL。自称魔法少女です。かなりやばいですね。彼女はメンタルの危機が訪れると、コンパクトを開け魔法少女に変身します。もちろんそのことは親友以外には言わない分別は持ち合わせています。この秘密の儀式が彼女のメンタルを保っていたのですが、ひょんなことからモラハラ男がこの儀式に参加することで歯車が狂い始めます。なんというかおかしな人に出会った時の、笑いと一抹の後ろめたさを味わえます。読み心地はポップで面白いです。

    以上、僕の中で笑える文学を5作紹介してみました。文学なんて辛気臭いもの読みたくないと思っている人にぜひ読んでもらいたいです。文学の定義が変わると思いますよ。

  • 嚙み砕く天才による哲学入門書 難解な哲学がスラスラ分かる

    みなさん、哲学と聞いて何を連想しますか?難解、何言ってるか分からない、自分には縁の無い世界。そう思う人が大半ではないかと思います。しかし、何やら怪しげな魅力があるのも事実。ビジネス書でも最近哲学の本がブームです。

    かくいう僕も哲学に挑戦してみたことがあります。最初に挑戦したのは大学3回生の頃。鬱屈した学生生活を送っていた僕は、大学の図書館に籠ってとりあえず気になった本を片っ端から読むという生活を送っておりました。人生の第一次氷河期です。

    そこで哲学の本に挑戦してみようかという気が起こり、試し図書館にあったヘーゲルの精神現象学を手に取って読んでみました。一読して戦慄しました。意味が分からない。日本語なのに。

    「事物が<私>である。実際この無限判断にあっては、事物は廃棄されてしまっている。」

    みなさん分かりますか?僕は分かりません。今になっても。この調子の文章が延々と続きます。僕はそっと本を閉じました。後になって分かりましたがこの精神現象学という本は世界一難解な哲学書と言われているそうです。試しに近場の山でハイキングするつもりがいきなりエベレストにぶちあたってしまったのです。僕はこのトラウマにより長らく哲学から遠ざかってしまいました。

    二度目の挑戦は社会人になり、会社をクビになった時にやりました。人生の第二次氷河期です。僕は人生の壁にぶつかると哲学を欲する傾向があるみたいです。

    その時挑戦したのはハイデガーの存在と時間です。無謀にも入門書ではなく岩波書店の原文に忠実なやつを読んでしまいました。本を開いたときにあの恐怖が蘇ってきました。

    「現存在たる世界内存在は、存在論的差異により存在者を存在者たらしめる存在を・・・」

    僕は再び本をそっと閉じました。その後も精神障害の発症、発達障害の判明、と壁にぶち当たるたびに哲学書を読み、哲学の分厚い壁に跳ね返されるということを繰り返してきました。この人たちは意味を理解されたら負けだ、と思ってわざと難解にしているのではないかと逆恨みをしました。

    それから歳月を経て、書店に就職し、精神的に安定したとき、たまたまバキのイラストが書かれたこの本に出会いました。あの日の苦い記憶が蘇り、本を手に取るのをやめようかと迷いましたが、最初の数ページを読んでみました。驚きました。日本語が読める!文章の意味が理解できる!当たり前のことですが哲学の本では奇跡的なことです。僕は一日でこの本を読み終わりました。

    分かる!分かるぞ!僕は心の中で喝采を叫びました。

    例えばヘーゲル。何を言ってるかどころか一文すら理解できませんでしたが、この本によるとヘーゲルは弁証法という方法論を確立した人らしいです。弁証法とは何かと言うと、いわば意見のトーナメント。「あれは丸い」という意見と「いや四角だ。」という意見を闘わせ、「いや、あれは丸くて四角い円柱だ!」という新しい発想を生み出す考え方です。ヘーゲルによれば歴史も弁証法的に進むらしいです。昔は独裁的な王政社会があり、それに反対する市民の革命が起き、民主主義社会が生まれた。そのように社会も革命を繰り返し発展していくと。なんだそれが言いたいならそう言ってよヘーゲルさん。僕はやっと難解なヘーゲル哲学のしっぽを掴むことに成功しました。僕は勝手に著者の飲茶さんを文筆界の池上彰と認定しました。

    遥かに遠く険しい哲学の山々を一望できる地図のような本でした。まだこの山を登りたいとは思えませんが、またいつか登りたいと思った暁にはこの本をコンパス代わりに持って挑戦してみたいと思います。

  • 人はなぜ走るのか?その答えがここに!

    淀川市民マラソン走ってきました。タイムは3時間46分46秒。自己ベストを更新しました!

    今回はマラソンはきつかった。途中までは3時間30分のペースで走れていたのですが、27キロ付近から失速。足が痛くなり、何度も立ち止まろうかと思いました。30キロ付近で頭をよぎったのは「なんでオレはこんな辛いことをやっているんだ?」という言葉でした。

    「なんで金払ってそんなしんどいことするん?」マラソン走ったことがある人なら一度は言われたことがあるのではないでしょうか?その質問に明確な答えを出せたことがありません。タイムが更新されるのが楽しい。自分が成長している感覚がしてやりがいがある。いろいろそれらしい理由をつけるのですが本当にそれが本心なのかはよくわかりません。

    そんなときに出会ったのがBORNTORUNという本です。この本は100km以上のマラソン、ウルトラマラソンのランナーと、メキシコの走る民族と呼ばれているタラウマラ族がレースするという内容です。

    これノンフィクションなんですがめちゃくちゃ面白い。文章は慣れるまで読み辛いんですが、慣れてくると出てくる人物のキャラクターと、走る描写に引き込まれていきます。なにが面白いかと言うと出てくる人物のキャラクターが強烈なのです。

    「人間は裸足で走るようにできている」という哲学の元、ベアフットランを続けるベアフッド・テッド、ジャック・ケルアックを信奉し、無茶苦茶な生活を送りながら100K走るカップルジェンとビリー、タラマウラ族の生活に魅入られ彼らと生活する変人カバーヨ、そして驚異的な持久力を持ち一度に160km走ることができる民族タラマウラ族。

    事実は小説より奇なり、と言いますが、こんな人間ホンマにおるんか?という人間が次々と出てきて飽きさせません。そしてフルマラソンを軽々超えるウルトラマラソンを喜々として走るランナーの描写に忘れかけていた走る喜びを思い出しました。

    「もう無理」という言葉が出かかったときに思い出したのが、このBorn To Runという本のことでした。僕はペースを見ることをやめ、目の前のランニングに集中することにしました。1km、1km重い足を引きずりながらも走り続けゴール。終わってみれば自己記録更新を達成できました。

    ある意味、ランニング技術の本よりも僕を後押ししてくれた本でした。「なんで金払ってそんな苦しいことするのか?」と疑問に思う人も、「なんでこんな苦しいこと休日にやってるんだろう?」と疑念にかられてしまったランナーも読んでみて欲しい本です。きっと走りたくなりますよ。

  • 歌舞伎を観に行きました!

    国宝の影響で歌舞伎に興味を持ち、先週京都の南座で彼女と歌舞伎を観に行きました。

    席は一番上段の端の席、そこから役者が見えるのか不安でしたが、想像以上に見晴らしが良く全体を見渡せるので良かっです。

    「歌舞伎は長い」という口コミをネットで見かけたので覚悟していたのですが、演目ごとに休憩があり、メリハリが効いていたのであっという間に終わった感じがしました。

    演目は3つあり、「二人藤娘」「菅原伝授手習鑑」「荒事絵姿化粧鑑」の3公演でした。

    産まれて初めての歌舞伎だったので途中で寝ないか不安もあったのですが、そんなことなく終始楽しんで観れました。

    セリフがおそらく江戸時代の言葉なので、正直ストーリーはまったく分かりませんでした。フィーリングで、「恋した娘がおどってるんやな」「敵討ちの話やね」「強い武将が敵を袋叩きやな」と完全に感覚でストーリーを妄想しました。合っているかはわかりません。じゃあ何が面白かったかというと、それは歌舞伎独特の雰囲気としか言いようがありません。

    豪華絢爛な舞台や衣装、勇ましい見得、妖艶な舞い、そして役者が体で発する気迫のようなもの。その全てが観ている人を圧倒しました。まさに、考えるな感じろの世界。ストーリーが分からなくても面白いというのが発見でした。また観に行きたいと思うほど良かったです。彼女も大興奮していました。次はストーリーの予習をしてから行きたいと思います。

    さて。今回紹介したいのは国宝の花道篇。ついに完結篇です。

    本当に長い大河ドラマでしたが、面白くて一気に読んでしまいました。後半でも映画に出てこないエピソードがてんこ盛り。

    お世話になったヤクザの誕生日パーティーで舞を披露し、世間からバッシングを受ける喜久雄。それが逆に歌舞伎役者に評価され歌舞伎の世界にカムバック。市駒との娘の綾音が相撲取りと結婚。他にも映画に無いシーンが山ほどあります。改めてこの分量の小説を3時間にまとめた奥寺佐渡子の凄さを感じました。

    長い大河ドラマを見終えたときの充実感がありました。そのわりに文章が読みやすいせいかあっと言う間に読み終えた印象です。実は今まで映画と原作を見比べるということはあまりしたことがなかったのですが、今回やってみていろいろと発見がありました。改めて映画と小説は別物なんだと分かりました。映画は瞬間にメッセージを凝縮する打ち上げ花火のようなもの。無駄は徹底的に省き、物語を2~3時間の間に収めなければなりません。小説はむしろ時間と言葉を積み上げていって、一つの世界を組み上げていく建築物のようなものなのではないでしょうか。その違いが上手く活かされたからこそ、国宝は小説も映画もどちらも名作になったのではないかと思います。

    今回、改めて歌舞伎の世界の奥深さを知ることができました。次は曽根崎心中が京都の南座でやるらしいのでまた観に行こうと思います。今度はガイドブックを持った上でストーリーを理解して臨みたいと思います。

  • 国宝観に行きました。

    およそ一ヶ月前、映画「国宝」を観に行きました。

    国宝 青春遍

    一ヶ月前に映画の国宝を観に行きました。映画館は人がいっぱいで席は一番前の席しか空いていませんでした。首を上に向けて見なければいけなかったので集中できないかもしれないと思いましたが杞憂でした。

    圧倒的な映画体験でした。スクリーンから迫ってくるような役者の演技。役者を美しく撮る撮影技術。そして歌舞伎役者の業と崇高さを描ききったストーリー。すべてが破格でした。あまりにもいいので、後日もう一回観に行きました。

    芸に命を賭ける男たちの物語に胸が熱くなりました。なんといっても特筆すべきは吉沢亮と横浜流星などの役者の演技でしょう。実は僕はあんまり役者の演技の善し悪しがよくわからないんですが、この映画ではさすがに分かりました。
    役を演じながら、さらに歌舞伎を演じるという二重の演技を役者たちはやっています。離れ業だと思います。
    あまり語れていない印象を受けるのですが、ストーリーも良かったです。
    この映画は重要な見せ場がかなりあり、展開はかなりテンポよく進みます。日本映画は日常を淡々と積み上げていくタイプが多いのですが、国宝はメリハリが利いていて劇的です。おそらく歌舞伎の物語構成を意識しているのではないかと思います。

    映画があまりにも良かったので、原作の国宝も読んでみました。
    読んでみてびっくり。映画では描かれていなかったエピソードがかなりあるのです。というか映画では出てこなかった人物までいます。

    映画が歌舞伎役者の一瞬を切り取った劇だとするなら、原作小説は歌舞伎役者の人生を描ききった大河ドラマという趣があります。すごいことだと思いますがどちらもいい。

    比較してみると、映画と小説の本質の違いが分かるようで面白いです。
    映画にはやはり時間の制約があります。短い時間にどこまでエピソードを凝縮させるかが勝負なのでしょう。一方の小説は映像のように一瞬で分からせることができない。なので言葉を積み上げることで映像に負けない世界を創る。国宝は小説も映画もいい、という幸福な奇跡なのだと思います。
    原作を読んで、あれだけ膨大な情報量のある国宝を、3時間にまとめた脚本家奥寺佐渡子のすごさも分かりました。

    国宝の影響で歌舞伎も観に行きました。それもまた良かった。次回にまた書こうと思います。

    国宝は観ても読んでも損の無い名作だと思います。興味があれば、映画でも小説でも鑑賞してはいかがでしょうか?